Osamu Harada Memorial ”GALLERY INADOU"

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原田さんのおもいで

                                        桑島 正仁 

  「また下駄で帰ったりして。」原田さんと一緒に私の実家に帰省した時の母の第一声。
思わず苦笑い(下駄は俺のじゃ無いだけどなぁ。)

 原田さんは、上京する度に私のアパートの部屋に泊まった。歳も離れ、絵の柵から遠い私はつきあい易いヤツだったのでしょう。

 私の故郷、岩手に行こうと誘ったのは、原田さんの方だった。東北の寺院を巡ってみたいと昔から念じていたのだと思う。

 新幹線から東北本線に乗り換え、平泉駅に下車。毛越寺は、山と林に囲まれて池だけがあった。(うるさく響き渡る音声ガイドを止めてもらった)

 原田さんは池をまわり礎石だけが残る方へ一人で行った。私の目の届く場所ではスケッチをすることはなかった。

 翌日は、二人で遠野へ向った。私は、腹をたてていた。

 昨晩、実家で三兄の話に原田さんがチャチャを入れたことに若かった私は、肉親が貶されたと思い、原田さんにもう床に入るように強くすすめたのだ。遠くの寺をめざして、私は湖畔を、原田さんは砂利道を分かれて歩いた。

 最短距離を行ったつもりが、目的地に着いたのはほぼ同時だった。(急がば廻れを思い知らされた。

 原田さんは、昨夜はすまなかったと素直に謝ってくれた。その後は覚えていないが、原田さんは多分、一人で本命の出羽山へ行ったのだと思う。原田さんは、数年後一人で私の実家へ立ち寄り、毛越寺に行ったそうだ。三度目は美恵子さんを連れて。

 その頃私は、詩の雑誌に寄稿して毎号原田さんに送っていた。唯一の詩集は約束通り原田さんのスケッチを使わせていただいた。(チラシの裏に描かれたスケッチを数枚送ってくれた。

 原田さんは逢う度に私が話す小説や作者名を紙に書き込んでいた。(図書館で借りて読んでいたのだと思う。)異なる分野にも興味を餅吸収しょうという旺盛な意欲が感じられた

 寺健さん・木下君・満身さん・東さん・三井さんと京都、ゲリラで知り合った多くの人が今は居ない。死は誰にも平等に訪れる。生前に残したモノは宇宙からみれば無いに等しい。けれども、現在に生きる人に何らかの行動を起こさせる力も否定できない。原田さんがいろんなしがらみの中で、もがき苦しみながら生み出した絵がそれを物語っている。