13回常設展 「脩の軌跡~作品の変遷~」 作品紹介

【 白水阿弥陀堂

1160年に奥州藤原氏、藤原清衡の娘と徳姫が夫岩城則道の菩提を弔うために建立した願成寺の中の阿弥陀堂。昭和27年に国宝に指定された。東北では数少ない国宝建築。建物は平泉中尊寺の金色堂の影響が濃く、また浄土式庭園も毛越寺の浄土式庭園によく似ている。「白水」は奥州藤原氏の本拠平泉の泉の字を分解しものと伝承されている。

 画家は1973年に初めてこの地を訪れ、阿弥陀堂のたたずまいに魅了され、亡くなる直前までこの地に通いつめた。最初に画家が訪れた当時、寺の周囲は水田となっていて石組らしいものが田んぼの中に取り残された状態であり、池の汀線や州浜などは土の中に埋もれ、わずかに中の島にかかる橋の周囲に池が残るだけの殺風景な情景だったが、それだけに建物の美しさが際立っていた。

 画家はそれまでにも大原三千院や日野法界寺などの阿弥陀堂モチーフにしていたが、この白水の阿弥陀堂に出会ったことで阿弥陀堂の美しさとその精神性の高さにのめりこんだような気がする。庭園史の泰斗森蘊氏の1957年の発掘調査によって浄土式庭園と認められて国の史跡に指定され、森氏の指揮のもと浄土式庭園の復元が開始される少し前のことである。 

作品1.は1974年の制作なので阿弥陀堂の前に池はなく、田んぼが広がっている状態だ。白水の阿弥陀堂に出会った喜びをダイナミックな筆遣い、色使いで表現していて若さの勢いを感じさせる。 

作品2.は2年後の1976年の作品。この時期、画家は朱色にチャレンジし、白水の阿弥陀堂だけでなく、小浜の「明通寺三重塔」も思い切った朱色で表現しているほか、「那智の滝」にも火祭りの松明を連想させる赤が書き込まれている。 

 作品3.4.は庭園の復元がおおむね完了し、阿弥陀堂が浄土式庭園という大昔のパートナーに再会して蘇った1980年以降の作品である。森蘊氏に私淑していた画家にとって森氏の再現した池泉と阿弥陀堂の絶妙なバランスが制作意欲を駆り立てたに違いない。

 作品5.きわめて薄く塗った絵具の下に見えるのは鉛筆デッサンである。水彩画の鉛筆淡彩はよく見かけるが油絵の鉛筆淡彩画はそう多くはない。西洋風ではない「日本の油絵」を描きたいと語っていた画家にとって、この作品は到達点の一つであろう。長い間田んぼに埋もれていた石組が阿弥陀堂の点景として息を吹き返した。お堂や塔の前の灯篭や石組などの点景を省略している画家の、唯一の例外がここにある。

【 浄瑠璃寺 】

浄瑠璃寺は平城京に近い当尾(とうの)の里にある平安末期の阿弥陀堂建築である。本尊(本仏)が薬師如来であったため、薬師如来の住む東方瑠璃世界に由来して浄瑠璃寺と呼ばれている。国宝の本堂・阿弥陀堂は1157年に浄土式庭園池泉の西岸の現在地に移築された。本堂に九体の阿弥陀仏を安置していることから九体寺とも呼ばれている。池の反対側から本堂の中央の阿弥陀如来の顔は本堂の庇に隠れて見えないが、池に映った姿を見ると顔も見える。池に映して見ることで、極楽浄土の世界を見るように設計されていると言う。

  画家は若いころ、この当尾の里や山の辺の道の佇まいにひかれて住居を関西に移した。京都の社寺の派手さにはあまり興味を示さなかったが、奈良の古寺には心を奪われたと言っても過言ではない。中でもこの浄瑠璃寺と当麻寺、室生寺には思い入れが深かった。月の夜には独り下駄ばきでこれらの寺を訪ねた。初期の絵にはほとんど画面に存在しなかった月が画面に現れるのは29歳を過ぎたころからだ。月の光に照らされて白く浮かび上がる甍の下に仏様がおられることを実感として感じ取り、水に映る緑の木々にも仏性を感じたのだろうか。静かに流れるときの移ろいを深く心に刻み込むにはやはりそれなりの時間を必要としたのだろう。心に浮かんだお寺の風景を何とか画面に表現しようとしてもがいていた時代を経て、単純化による心象表現を身につけたのもこの時期。 

作品1.1965年、20歳を過ぎたころの作品。思い切り画面を単純化した初めての作品だ。現実の色彩から思い切って離れ、色の対比で画面を構成しようと試みている。色調を押さえながらも、色のバランスに心を砕いている様子が感じられる。この作品が出来上がったことによって絵描きになる決心がついたともいえる。

 作品2.196924歳の時の作品。眼前の風景と心象風景とのはざまで揺れ動いている様子が感じられる。この絵を描いた後も浄瑠璃寺の姿をしっかりと描きこんだ作品が残されていて、同じ作家の作品とは思えない表現をしている。

 作品3.浄瑠璃寺の浄土式庭園は1976年に池泉の修復が終わり州浜や護岸が新たに築かれた。この小さな作品からそれまでの落ち着いた庭が新たな庭に変身し、それまでの浄瑠璃寺のイメージとの違いを感じている画家の姿が浮かび上がる。 

作品4.1984年になると月がくっきりと表現され、画面の単純化も進み、心象風景に突き進んでゆく様子がよくわかる。この時期になるとグリーンの色遣いが大きく変わってくる。数多くのデッサンを描きこんで、夾雑物を取り除き、デッサンの線から選びぬいた色へと変換がなされている。

 作品5.この50号の作品は射手座の個展用の作品。これまでの流れの到達点であり、ようやく探り当てた心象風景と言えようか。大きな画面に、単純化したお堂が金色に輝いて、九体の阿弥陀仏がここにいることを暗示している。山の端にかかる月の光を受けて静かに白く光る甍。阿弥陀堂の前には仏を映す水面が広がる。春と秋の彼岸には太陽の光が三重塔を越えて、さらに水面を越え阿弥陀様に届くそうだ。

 【 秋保大滝 】(あきうおおだき)

宮城県と山形県の境にある高さ60メートルの滝。日本3名瀑と言われている。一つ山を越えれば芭蕉の「静けさや岩に染み入る蝉の声」の立石寺があり、その昔、慈覚大師が立石寺に向かう途中に立ち寄ってこの地に不動明王を安置したと伝えられ、立石寺の奥の院ともいわれている。名湯秋保温泉の奥にあり、紅葉の名所となっている。

 画家にとって瀧はもちろん大切なモチーフだったのは言うまでもない。日本3名瀑はどこであるかについては諸説あるが、画家にとっての日本3名瀑は那智、華厳とこの秋保大滝がそうであった。

 那智も華厳も垂直に落下する飛竜のような滝であるが、この滝は水量が多いため瀧幅が広く、重量感をもって滝つぼになだれ込んでいる。滝の作品は那智の滝が圧倒的に多いが、1980年を過ぎて東北に本格的に目を向け始め白水の阿弥陀堂や高蔵寺の阿弥陀堂、毛越寺を描き始めてから、この秋保大滝と最上川にかかる白糸の滝が登場し始める。 

作品11986年、40歳の作品。秋保の大滝が緑の中をなだれ込んで落下している様子がよくわかる。那智の滝はどちらかと言えば神々しさ、すなわち神性を感じさせるが、この滝は厳しいけれどもどこか暖かさを感じさせる不動明王が似合う。

 作品21992年の作品。周囲の赤は紅葉だろうか、あるいは滝を象徴する赤不動の姿だろうか。奥羽山脈の脊梁から流れ来る名取川の水のボリュームが画面全体から押し寄せてくる。この水の勢いがスケッチに良く表現されている。

 【 羽黒山五重塔 】
羽黒山神社の中腹にある高さ29m、三間五層の杮葺(こけらぶき)・素木造り(しらきづくり)の東北地方における唯一の国宝五重塔。長い軒は飛び立つ白鳥の翼のように美しいと表現され、そびえたつ姿は四季を通して優美。杉木立に囲まれて雪の降り積もる塔の姿も東北ならでは。平安期平将門の建立とされ、慶長十三年(1608)には出羽山形藩主、最上義光が修造。

 画家の東北旅行のメインルートはまず福島県の白水阿弥陀堂をスタートして、宮城県の高蔵寺阿弥陀堂をめぐり、毛越寺、中尊寺を経て山形県に入るコース。もちろん福島にとどまって会津の古寺を巡るコースもあったし、弘前まで足を延ばすこともあったが、この五重塔に巡り合ってからはもっぱら羽黒山詣でが多かった。全国に国宝のあるいは国宝級の五重塔は結構あるが、画家が絵のモチーフに選びタブローに仕上げた五重塔は、この塔と室生寺の五重塔に絞られる。山口の瑠璃光寺五重塔や福山の明王院五重塔などに心を動かされたようだが、タブローにはなっていない。もちろん法隆寺、醍醐寺、東寺の五重塔についても名建築と言われているが作品にはしていない。雪深い羽黒山の杉木立の中で屹立する五重塔の神々しさと、女人高野と言われる室生寺の深い木立のなかにたたずむ五重塔の優しい姿に仏の姿を見たのだろう。

画家にとって、塔に関してはどちらかというと五重塔よりも三重塔が取り組みやすかったようで、作品の数としては三重塔のほうがかなり多い。

作品1.画家が最も慎重にスケッチをしたのが五重塔を描く場合であった。五重塔をモチーフとして作品にする場合、一つ間違えるとそれは塔ではなく、単なる高い建物になってしまう。何しろ甍が5層にわたって空に展開しているのだから、そのデリケートな形を追いかけるだけでも大変な作業なのだ。

五重塔以外のモチーフをスケッチする場合、対象から感じ取ったイメージをいったん懐にしまい込んで、鉛筆デッサンによって心象を紡いでいるのが画家の通常の方法なのだが五重塔のデッサンは、この作品の様にかなり形にこだわっている。

作品2.デッサンからこの作品までの距離が近い。ようやく五重塔としての形が出来上がったが、イメージとしての五重塔はまだ完成していない。

 

Osamu Harada Memorial ”GALLERY INADOU"

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